神学を拓く

神学の根拠となる候補を考察すれば、問題を帯びてる例は多い。そのため、何を根拠とするかは、第一の問題になる。

まずは、言い伝えは根拠にならない。「言い伝え」というのは、神話や古典も含まれている。8世紀初頭に著された書物も、言い伝えである。8世紀にそう言われていた自信は持てるが、問題は他の言い伝えと同じである。つまり、検討したい神の性質との関係は不明である。もしかして、別な手法で神の性質に近づけたら、その理解に基づいて言い伝えから有益な情報を得ることはできるだろうが、今の状況であれば、それはできない。

そして、神託も根拠にならない。神託の大きな問題は、他の学者は神託を確認することはできない。誰にもは神託が下されるわけではないからである。同じ理由で、二人の相違点の解決には役に立たない。双方が自分の神託を強調するからだ。一方、神との関係は明白である。神託は本当に神託であれば、神の言葉である。その場合でも、神には自分の本質が分かるとは限らない。人間なら、自分の本質はわからないので、神も同じである可能性は認めないわけにはいかない。ただし、別な手法で神を理解できたら、神託もより客観的に評価できるようになる可能性もあるので、その場合証拠にもなるだろう。

一般的に見れば、手法として避けてほしいことは、人間の解釈は必要である方法だ。人間の解釈は、人によって違うし、解釈は正しいかどうかを判断することは非常に難しい。解釈に基づく学問、例えば文学は、進歩しないと言える。文学の見方が深まるだろうが、科学のように真実に近づくことはないようだ。神学で、真実に近づくのは目的なので、文学のようになるのは良くない。

前にも、神道の伝統に見える一つの候補を指摘した。それは御神籤である。御神籤は、神の意志を表すと言われてきたが、どちらの御神籤が出たかは、人の解釈の問題ではない。見たら、これは大吉であるなどは誰でも分かる。偽りや捏造はない限り、御神籤自体は信頼できる。(偽りや捏造に気をつけなければならないことは、科学と共通することだから、これから暗黙前提としたい。)確かに、御神籤から神の本質を把握することはできないだろうが、糸口として利用して、他の方法を確保することも望まれる。

もう一つの方法には、統計学を利用することはできる。それは、ご祈祷と結果の関係を調べることだ。この分野で解釈が働くので、御神籤ほど簡単ではないが、希望校に合格したかどうかなどの客観的なこともある。もちろん、ご祈祷すれば必ず合格することはないので、統計学を利用して、ご祈祷で合格する確率が上がるかどうかを確認することはできるのだろう。確率が上がらないと、ご祈祷の効果は疑わしくなるが、上がったら、ある意味検証される。

しかし、実験は問題になるので、次回そのことについて論じたいと思う。

(ところで、この内容はちょっと前に投稿した内容と重なるが、同じことをさらに考えているので、そうさせて頂く。)


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