この投稿で、御神籤を実験として使う方法の概要を説明する。これも、前に触れた内容だが、今回もう少し踏み込むつもりだ。
最初に試す方法として御神籤が良い理由は複数ある。まず、神道の中で御神籤の伝統は長い。少なくとも鎌倉時代まで遡るし、他の占いが記紀神話にも見える。この方法を神事の中で使うのは、伝統から見れば問題になるはずはない。そして、客観的な側面は強い。御神籤の結果は、曖昧ではない。これは、他の卜占と違うだろう。亀卜であれば、亀裂の模様の解釈には人の感覚が働くが、御神籤であれば、撮ったのは大吉であるかどうかは明瞭だ。この利点は制限でもあるが、最初に客観的に評価できる結果は必要不可欠である。その上、誰でもできることだ。亀卜を解釈するために経験は必要だと思うが、御神籤をとって読むには、識字ぐらいは必要だ。これで、重要な条件の二つが満たされる。まず、伝統によれば御神籤の結果は神様の意思とつながると信じられる。そして、誰でもこの方法を使うことはできる。
では、三つ目の条件は、論争に決着を与えることだ。これは難しい。これで、実験の構造を考えなければならない。例えば、普通の御神籤を使ったら、御神籤をとったからの人生の展開を評価しなければならないが、それに相違点が発生するのではないか。決めてもらうことを慎重に定めるべきだ。
前に掲げた候補は、神饌の選択肢だった。特別な御神籤を作って、六つ程度の神饌を書く。そして、御神籤を引いて、次の祭祀ではその神饌を供える。選択肢を普通の神饌に限れば、ここには祭祀の尊厳に触れないが、神様の意欲を探ることはできる可能性がある。もちろん、様々な神饌が依頼されると思われるし、それは予想できる事実だ。神様でも、毎回同じ神饌を依頼するはずはない。しかし、統計学的に分析すれば、無作為な分布と違うかどうかは確認できる。
様々な無作為からの逸脱は可能である。一つは、総合的な割合である。五つの御神籤があれば、無作為であればそれぞれ2割になる。当然、実際にしてみれば、ちょうど20%にならないが、分析すれば、それはただの偶然であるかどうかは判断できる。しかし、割合は無作為であっても、頒布の模様が偶然ではないこともある。例えば、1、2、3、4、5、1、2、3、4、5という順番が永遠まで繰り返せば、割合は偶然の20%であるが、偶然な結果ではないことは明らかだろう。ただし、このような結果を探せば、慎重に分析しなければならない。なぜかというと、実験すればその1回だけの結果が出るからだ。無作為に見えない模様が潜むのは確実である。最初の実験でその模様を探したら良いが、別な実験で同じ模様が現れない限り、本当に偶然ではないとは言い切れない。統計学的な分析には、このような問題を回避する方法もあるので、きちんと行うと、できなくはない。
それでも、結果の解釈には問題が残るので、論争に決着をつける力があるかどうかは、次回論じたいと思う。