御神籤の決着

では、御神籤から客観的な結果が出たとしよう。それはできるに違いない。数週間をかけて、御神籤を引いて結果を記録すれば、結果が揃う。この結果で決着がつくのだろう。

まず、無作為な結果とはっきり異ならない場合を考えよう。神饌について、神様には好き嫌いがあるのは神道の伝統であるし、自分の好みがわかると思えるので、無作為であれば、この方法で神様との意思疎通はできない証拠になる。別な方法を試すのは良いが、これは確かに神学にとってちょっとガッカリする結果になるだろう。自信を持って「無作為と違う」と言えないが、模様を見つけた場合、さらに実験を行って、その模様を確かめることはできる。すぐに「何もない」という結果にならないが、結局そうであれば、少なくともこの方法で神様との意思疎通はないと判断するべきだろう。(その場合、御神籤を神社でやめたほうが良い。ただの遊びに過ぎない証拠になるからだ。)

一方、無作為と違う結果が出たとしたら、どうすれば良いのか。

最初に、他の原因を排除しなければならない。御神籤を引くのは人間だから、もしかして引く人のやり方には模様があるだろう。だから、別な人によって引いてもらって、模様を比較する。模様は同じであれば、人の影響ではない。模様はまだはっきりしているが、違うなら、面白い結果になったので、さらなる実験を構築する。そして、御神籤自体の影響である可能性もある。これを排除するために、物理的な御神籤の意味を変える。例えば、1回目で1は鯛、2回目で1は玉ねぎとする。神様の意思は、新鮮に対するものであるはずだが、よそに御神籤の意味を変えても、御神籤の物理的な傾向には影響を与えるのは考えにくい。したがって、このように確認するべきだ。

この両方の確認をしてから、まだ無作為との違いは明らかであれば、興味深い結果を得た。次は、別の神社で確認するのは良い。それでも確認できたら、特に別な神様には別な好みがあるような結果になったら、大変興味深いことになる。

ただし、証明しないこともある。神道は本当のことを言っていることは証明されていない。確認したのは、あくまでも神社の中の存在の神饌の好みにとどまる。慎重に考えれば、それもわからない。本当に見えたのは、御神籤の模様には偶然だと思い難い要素である。その模様を見て、さらなる実験を考えるしかない。御神籤を操っている存在は神道の思い描く神様に似ている証拠はその段階では一切ない。

科学の進化を見ればわかるが、100年以上かかることは少なくない。特に新しい領域を拓く動きにはかなり時間がかかることは多い。神学をこのように根拠を見つけようとしても、既存の神道を裏付けない可能性にも、価値のある結果を得るために数十年間がかかる可能性にも配慮しなければならない。


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