惟神道

「惟神道」(かんながらのみち)という表現は、神道的な生き方を指すために幕末時代から明治時代にかけて使われていたようだ。語源はさらに遡るが、人気を集めたのはその時代だった。私も、このブログで神道的な生き方を指すために使いたいと思う。

ただし、その惟神道の内容はまだ具体的に決まっていない。このブログでどのような方向で考えているかを示唆したり、明記したりしたことがあるが、体型的にしたことはまだない。そして、この投稿でその作業はまだ始めない。体型的にできる前に、問題について考えなければならないので、その考察をこのブログでやるつもりだ。読者にとってわかりにくくなるだろうが、すまない。投稿は自分のために書いてあるし。

まず、惟神道は政治的な自由を確保することにはならない。惟神道と拘束力の関係はちょっと複雑になると思う。

その道を歩む人にとって、拘束力を持つ。その拘束力で、人間の精神的な弱点を補強して、人生で価値があることができるようにさせる。そうするために、惟神道の拘束力を認めなければならない。そうしないと、「今回しなくていいな」と思ってしまう。だから、その場で鉄則として捉える戒律もあるべきなのではないか。それだけではなく、神道で「元々本々」という理想があるので、戒律を度々目的と照合わせて、修正は必要かどうかを決める。この道は、歩きながら進化する。惟神の意味は、「神そのもの」であるとの説もあるので、「惟神道」の解釈の一つは、「道になっている神」でもある。その場合、道自体が進化して改善するのは当然だろう。それでも、すべての時点では拘束力がある。進化して変わると、拘束力は保つが、指示する行動が変わる。これは普通の倫理と大きな違いの一つであるので、その実現についても深く考察したいのである。

そして、もう一つの大きな違いは、道を歩む人を拘束するが、他の人を拘束しない。つまり、惟神道を歩まない人が惟神道を禁じる行動を行っても、批判さえしない。できない。惟神道を歩んでいないので、従わないのは当然だ。これも普通の倫理と大きな違いである。倫理の普遍性は倫理の本質であると強調する哲学者も少なくない。しかし、神道の多様性を見たら、そして自由の重要性を鑑みたら、そのことを否定するべきであると思う。惟神道を選ばなくても良い。ただし、選ぶといいことになる、と訴えたいのだ。だからこそ、内容を考えて、良いことになるように工夫しなければならない。


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