魅力的な道

惟神道を提供することに留まることであれば、魅力的な道を提供しなければならない。つまり、「こうすべきである」と脅すことはできないので、誘致するしかない。では、どのような道は魅力的であろう。「やりたい放題の道は魅力的だろう」と思いがちだが、そうではないと私は思う。確かに今を行動を選ぼうとする時点で、やりたい放題の選択肢は眼前に魅力的であるが、道を選ぶのは違う。道を選ぶ場合、長期的に自分の人生を俯瞰して、進みたい道を指定する。その場合、「毎晩3時間なんとなくテレビを見る」と決断する人は少ないのではないか。実際にそうする人は多いにも拘らず。

つまり、魅力的な道は、価値のある人生を提供する道である。

そして、もしかして高い理想と現実味のある道のりのある道が良いのではないか。人気を博したキリスト教やイスラム教、仏教を見たら、そのようなパターンである。一番詳しいのはキリスト教だが、その倫理的な理想を満たすのは人間にとって無理であろう。実は、キリスト教も無理を認める。しかし、キリストの他力に頼って、自力を尽くしたら報われると言われる。確かに、罪悪感に追われてきた人は少なくないとも言われるが、キリスト教に帰依する人も今もなお存在しているので、魅力があるのは否めない。

やりたい放題であれば、特に道を選ぶ必要はない。ただテレビの前でビールを飲んでも良い。道は、そのダラダラな人生を改善するために求められる。だからこそ難しい理想があると良いのではないか。一方、到底無理な理想であれば、また意味を失う。明らかにできないことで人生を意味を見つけられるとしても、満たさないので実際に意味にはならない。そして、人間の自然な傾向に従うように指示されなくてもそうするが、他の目的に邪魔するので、食欲や色欲を抑える道は多いのは当たり前である。その上、自分の意欲を抑えながら行動すれば、本当に信念のために動いている確信を持てる。理想と確信が偶然自分の意欲と重なると、本当に理想に沿って行っているかどうかは曖昧になるので、気分が不安となる。(ところで、オーウェルの有名な『千九百八十四年』の小説で、政府が国民を苦しませる方針を導入する。なぜなら、国民の幸福に貢献する方針であれば、自分の権力に国民が従っているか、自分の意欲に従っているかわからないからだと言っている。)

要するに、自己管理を必要とする道で、目的地は何か難しいところで、到達可能であれば、最低限の資格を持つのではないか。この枠でさらに詳しく考えたいと思う。


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