今回の投稿がいつもにも増して抽象的になると思う。意欲と道の根本的な関係について考えたいからだ。民主主義との類似点があるのではないかと思ってきた。
国家の構造では、内乱を通して政権交代を図ることは、国民や国自体に大きな被害をもたらすのは確実である。現時点でシリアを見たら、痛感する。日本の戦国時代も例になるし、中国の歴史には例は数えられないほどある。歴史的な政治論理は、政権交代を避けるために構築された。例えば、君主に忠実して、指名した皇太子を認めるべきであると強く主張した。場合によって、指名権さえ否定した。後継者は出生順によって決められる。イギリスの16世紀にはこの例は見える。プロテスタントのエドワード6世の後で、カトリックのメーリーが即位して、それからプロテスタントのエリザベス1世だった。宗教の変更とともに大きな弾圧があったが、それでも出生順に従った。政権交代に伴う混乱はそれほど恐れられた。一方、民主主義の大きな発明は、混乱を伴わない政権交代である。政権交代が自然なことになると、反乱を起こさなくても新しい政権を擁立できるので、国家の安寧を長期的に確保できる。イギリスのように国王があっても良いが、国王に権力を一切与えないのは重要である。つまり、国王を交代させる必要は一切ない背景は条件である。
個人的な倫理には同じような傾向はあったのではないかと思ってきたわけだ。色欲は顕著な例であるので、色欲のことを考えよう。人間の色欲は非常に強い。人はそれぞれだが、一般の人の行動などは、色欲によってすぐに狂われる。色欲に牛耳られたら、他の大きな目的に達成できなくなりかねない。そのため、倫理性のほとんどは性的な行為を制限する。主に、原則として禁じる。倫理的なルールに従って性的な行為を避けたら、生活は狂わないだろうと思われただろう。
しかし、国家の構造と同じ問題がある。色欲を永遠に絶対的に抑圧しなければならない状態であれば、爆発してしまうことは多い。その場合、もう倫理を逸脱したので、倫理によって制御できるはずはない。その結果、問題が多く発生する。一方、倫理制度の中で性的な行為は認められていたら、制度に従って行う選択肢がある。もちろん、制度の取り込み方は、人生の目的への達成に支障にならないように工夫しなければならない。民主主義で、政権を変える方法が提供されているので、反乱は不要となる。倫理で色欲を満足させる方法が提供されたら、その方法に限られるのではないか。
色欲に限らない。お酒のような麻薬の利用も制限しないと、人生が狂ってしまう。賭博も人間に問題を与える。その上、食欲も問題を起こすことはある。もちろん、食物を喰うことを禁じることはできないが、厳しく制限する宗教は少なくない。
つまり、惟神道では、このような強い意欲を管理する内容は必要だと思うが、禁止するのは効果的ではないし、むしろ危ないと思うので、方法をさらに考えなければならない。