惟神道はどのような形をとるのだろうか。もちろん、日本語で単数と複数は文法的に区別されていないので、この惟神道は一本道ではないことを言っておく。中心に見据える神様によって詳細は異なるのは当然であるので、私は私が縁を感じる高神産霊神と嘉神産霊神を中心とする道を描写する。だが、ここは出発点になる。
まずは、一般的な道ではなくて、神祇の道だから、神事が重要になる。神事が重要にならないと、惟神道と呼ぶ根拠が曖昧になる。
そして、神産霊の神なので、創造も中心となるのは当たり前だ。造化三神の二人なので、神話で宇宙の発生と深く関わる神様である。
その上、神道の歴史を見たら、共同体の重要性は明らかだから、共同体で何か作成することも重視する。ただし、創造は必ず集団でできることとは限らないので、集団で作成することに専念しない。
個人的に、行動を禁じたくない。それより、ある行動を促進したいと思う。もし良い影響を周りに与える行動に時間を使ったら、悪いことをする余裕が残らない。さらに、「禁物を避けて、自己中心なことにどうやって達成できるか」と考えたら、結局悪影響になりかねない。一方、「どうやってこの良い影響を与えられるか」と考えたら、結果が良くなるに違いない。ただ、これはできるかどうかわからない。人間は、自分の都合に良い方向で状況を捉える傾向は強いので、禁止令でそのような危険を防ぐ必要はあるのではないかと思う。それでも、積極的な内容を中心としたいのは変わらない。積極的な行動から始まって、それに加えるべき禁止令を最後に考える。(もちろん、この道には拘束力はないので、誘導されない人には禁止令は無効である。)
前回述べたように、人間の生物的な意欲は計画などを崩壊する傾向があるので、道でその意欲を抑制しなければならない。歴史や宗教を見れば、重要なのは色欲、食欲、物を集める意欲、麻薬など依存と関わるもの、そして賭博であろう。一方、最近ネットで面白い猫動画を見ることの危うさも露わになっている。歴史的な倫理制度に触れられていない理由は、15年前に存在しなかったからだが、大きな問題であるのは否めない。テレビをだらだら見ることも同じような問題である。このようなことを抑制するために、禁じるか、制限するかしかない。前回言った通り、制限した方が有効ではないかと思うが、客観的な制限ではないと効果は見込めない。
最後に、ある程度余裕が入らないと、魅力的にならない。だから、創造する内容を自由としなければならないだろう。
このような条件を踏まえて、道をさらに考えたいと思う。