惟神道であれば、神道で昔から重んじられてきた浄明正直を基としなければならないのだろう。(共存共栄も重要な概念だと思うが、それは後回しにする。)浄明正直を見たら、やはりいいことばっかりだが、具体的にどう言う行動を指すかは、明らかではない。道を案内しようとすれば、具体的に考えなければならない。
「正直」から始めたいと思う。正直の基本は嘘をつかない、自分を偽らない、人を騙さないことであるので、基本は難しくない。
まず、この規則は、人間の悪い傾向を食い止める役割がある。都合が悪い状態に陥ったら、嘘をついて生き抜こうとすることは多いのだ。しかし、長期的に見れば、その嘘がさらに嘘を招き、さらなる嘘が絡み合って自分を束縛する。結局、嘘がバレてしまうので、人生に悪影響を与える。政治的なスキャンダルでよく言われるのは、問題になったのは行動ではなく、行動を隠そうとすることである。そして、嘘がばれなくても、他の人が真実として受け取って、それに基づいて動くので、自分にとって問題になりかねない。しかし、これは単純すぎる。
同性愛者が良い例になる。同性愛者がそのことを隠して、異性者と付き合いたいように偽ったら、人生がうまくいくはずはない。いつも自分の情熱と違う方向に行こうとするからだ。そして、色欲をいつまでも抑えるのは難しいので、いつかバレてしまうが、その時点で大きな問題になる。一方、多くの社会で正直に「私は同性愛者」であると述べたら、逮捕されたり、周りの人に殺されたりする。その結果の方が悪い。有名な例は、ナチスドイツでユダヤ人を隠しているとしたら、ナチスの警察官に「ユダヤ人を隠しているのか?」と訊かれたら、正直に答えるべきかどうか。もちろん、嘘をつくべきであるとほとんどの人が言う。
同じように、いつも正直に言えば、人に傷をつける。「あなたは醜いです」とか「このご飯は美味しくない」などの発言は良くないと思われる。事実上、この問題を解決するために、倫理より礼儀を重視する。ご飯はまずいとしても、訊かれたら「美味しい」と答えるのは礼儀である。礼儀で倫理違反すべきであるかどうかと聞いたら、ほとんどの人はそうではないと答えるだろうが、実際に違う。礼儀は、社会にとって必要となる倫理の例外を定めるとも言える。
難しい問題であるので、次回も正直の具体的な形について論じたいと思う。正直の目的をきちんと考えて、その目的を果たすためにどうすれば良いのかを、考える。