外向けの正直

では、外向けの正直は何かという問題を考えよう。

この側面で、嘘をつかないことの重要性が高まる。嘘をつくと、主に他の人の正直な人生を妨げるからだと言えるだろう。要するに、自分を正しく理解しても、周りの状態について嘘を付かれたら、その理解が乱れてしまう。それは嬉しいことも、悲しいことも、ただ関心を持っていることも、いずれも同じである。そして、相手の内面はわからないが、その内面は何であっても、外も正しく理解しないと正直に生きられないのは確かなので、本当のことを言ってあげるべきである。

しかし、このように考えれば、嘘をつくべき場合もあることがわかる。例えば、礼儀作法がある答えを定めたら、その答えは本当のことではなくても、言うべきである。この答えを聞く人は、「本当にその通りだ」とは思わないからだ。むしろ、「相手は礼儀作法の通りに対応してくれている」と考えるし、それは正しい。実は、本当のことを言っても、信じてもらわないこともあるだろう。相手は、ただ失礼にするためにそう言っていると感じるので、本当であるかどうかは最初から疑う。真実か嘘かは、相手が解釈して受け止める内容によって決まる。文字通りの意味のみで決まらない。

別な側面から、ある人に真実を言うことが大きな被害を齎せば、嘘をつくべきである。嘘は正直な人生の支障になるが、殺害はより深刻な支障だ。しかし、微妙な場合、真実を言う方に傾けるべきである。どちらの結果が良くなるのはすぐにわからなかったら、相手も真実に基づいて良い結果を探らせるべきであるからだ。

外向けの正直は、言葉の問題にとどまらない。生活とも関連する。正直に生きることは、自分を偽らない生き方である。つまり、自分の性格や動機、能力を周りの人に正しく表明することは原則である。そうしないと、内面的な正直も難しい。自分の性質を隠しながら認めることは絶対に無理とは言えないものの、簡単にできることではない。それに加えて、外向けの正直の一部は、正直に内面を見せることである。

これにも例外がある。例えば、サウジアラビアに住んでり同性愛者であれば、その事実を隠すべきだ。表明すれば、もう人生を送ることはできなくなる。殺される可能性もあるし、刑務所に入れられる可能性もある。一方、社会的な影響は軽ければ、正直に認めた方が良いだろう。正直に生きる影響を考えた上で判断するしかない。惟神道を社会レベルで考えれば、誰でも正直に生きられる状態を構築するのは良いと言えよう。

外向けの正直は、比喩すればぶれていない生活を送ること。


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