浄とは

「浄明正直」の中で、「浄」の意味は一番難しい。「浄」を倫理的に考えれば、汚れはないという意味で、悪いことはしていないという概念に非常に近い。もちろん、善悪の区別を考えている時点では、その解釈は無力である。偽りはないということも言えるが、それは「正直」にしたので、「浄」のために使うわけにはいかない。ちょっと考えなければならない。

二つの手がかりになるアイデアが思い浮かぶ。

一つは、「正直」は現状を正しく理解して、素直に認めることを表す解釈に基づく。現状は一番好ましい状況であるとは限らないのはいうまでもない。むしろ、常に自分を磨いて、さらに良くするべきである。これも自分ひとりに向く目的である。「明」にはその一部がもう入っているが、創造はすべての自己改善を尽くすわけはない。だから、「浄」がその残りを象徴すると良かろう。

もう一つは、神道で禊祓の重要性である。禊祓は清浄な状態に戻すのもいうまでもない。だから、「浄」は禊祓の後の状態であることも考えられる。この禊祓は一回で終わることではないし、一回で果たせることでもない。

この二つの概念を巧みに組み合わせたら、素晴らしい理想になると思われる。ただし、抽象的であれば、道標にはならない。具体的に理想像を描かなければならない。そして、その理想像は「浄」の一文字に表すことができる状態ではないと完璧ではない。

では、汚れは何だろう。よく言われているのは、雑草は好ましくない場所で生えている植物であることだから、汚れも同じだろう。汚れ自体は必ずしも悪いものではないが、その場所にあってはならない。墨は良い例となる。書道の作品では、墨は汚れではない。むしろ、作品の重要な根本的な要素である。一方、服についた墨は、大変な汚れである。

人も同じように考えられるだろう。つまり、汚れは悪いものではない。ただ、その人の人生に相応しくない要素である。理想の自分に邪魔になるものだ。「浄」は、理想の自分に合わない要素を全て洗い捨てて、祓い清めて、理想の人になった状態となる。

この概念は抽象的であるが、具体的な内容もある。まず、重要な点は、理想は全ての人の場合同じであるとは思わないことである。自分の汚れは、他人の重要な目的である可能性を明白に認める。これは重要だと思う。人は大きく違うので、一つの模範を全ての人に見せれば、大半の人に被害を齎す。そして、理想は外から持ってきたことではなく、本来の自分は汚れ(穢れ)によって隠れたが、徐々に綺麗にして表す概念である。

「明」と組み合わせたら、さらに具体的にできるのではないか。次回論じたいと思う。


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