「明」と「浄」を別々で論じてきたが、組み合わせたらより具体的な理想が見えてくるのではないかと思って、今回そうしたいと思う。
つまり、「明」は何かを創造して、世に放つことを指すことにした。「浄」は自分の人生の目的に邪魔になることを祓い清めて、本来の姿になることである。この二つを組み合わせたら、本来のあるべき姿は、創造したいものを生み出すための姿となる。その具体的な内容は、人によって選ばれるが、何かの実力を身につけたり、邪魔になるものを削ったりしてできる状態を目指す。
ここで、「明」の意味をちょっと修正したくなった。創造のことより、能力や実力を象徴することにしたいと思う。(この投稿で、惟神道を最初から考えているので、まだ完成していない考えも出るのは当然だ。)
この修正で、「浄明」が自分の成長を表す。「浄」は必要ではない要素を祓い清める成長を表すし、一方「明」が新しい実力などを身につける成長を表す。なぜ後者が「明」となるかというと、明かりは、能力と同じように、外に出て、周りの環境を変えることであるからだ。そして、素晴らしい能力を持っている人が「輝く」とよく言うように、この比喩には歴史もある。
こうすれば、「浄明正直」が自分の成長を表す。「正直」は現状を正しく把握することを表すが、「浄明」が成長と改善を象徴する。今の自分を認めるのは重要だし、これからさらに良くなることを確信して、それに向けて頑張ることも重要である。さらに良くなるために、自分にとって必要な能力や習慣を身につけることも重要だし、自分にとって邪魔になることを祓い清める必要もある。
この理想では、具体的な内容は人によって違う。「正直」の側面ではそれは当然であろう。自分の現状を認めることだから、何を認めるかは、人の現状によって違わないと正しくない。「浄明」も、何を目指しているかは人によって違うが、目指していることも、新しい能力を求めることも不要なものを捨てることも変わらない。広い意味で考えたら、「勉強」は「明」の側面であるので、この理想は生涯教育の概念を積極的に受け止める。一方、「浄」の側面は悪質な習慣から脱出することを主に指すと言えよう。テレビを遅くまでだらだら見ることやお酒を飲みすぎることなどの習慣からの脱却であるが、何を捨てるべきは、人によって違うし、何を目指しているかによって詳細が異なる。例えば、踊り子を目指せば、本を読みすぎることは捨てるべきだ。その時間を踊りのお稽古に使うべきであるからだ。一方、学者を目指していれば、サッカーをする時間を削減するべきだろう。
つまり、「浄明正直」は、主に自分の成長を促す理想とする。これは惟神道の重要な一部であるが、すべてであるわけはない。これから、他の要素について考えていく。