奉仕

神社神道では「奉仕」は重要な概念である。神職の職業を「神明奉仕」と呼ぶし、神社での活動は何であっても「奉仕」という傾向がある。「奉仕」は、文字からわかるように「仕えを奉る」という意味なので、自分の利益のために働くことではなく、神様や神社や他人のための努力を指すと言えよう。

惟神道では、奉仕が共存共栄を拡大する。「共存」で周りの人に迷惑をかけないし、「共栄」でお互いに利益を分かち合う企画を実現する。「奉仕」は、自分の利益にならないことに貢献することを指す。

奉仕を重視すると、典型的な個人主義の脱却ができるのではないかと思う。自分の利益と関係を持たない行動をとることは、社会や世界を重視することそのものである。一方、歴史的な世界中の倫理観を見れば、蔓延する誤解もあると思うので、それも指摘したい。

まずは、奉仕は惟神道の一部に過ぎない。浄明正直も共存共栄も重要であるので、奉仕のためにこの二つを怠るべきではない。自分の成長を的とする浄明正直と周りの人と分かち合う利益を重視する共存共栄も重要であるので、努力と時間をそれにも注ぐべきだ。惟神道では、奉仕に専念することは過ちである。もちろん、浄明正直に専念することも過ちだから、バランスをとらなければならない。その上、人間は休憩しないと効果的に働けないので、娯楽も重要であろう。

そして、奉仕は自分のための行動ではないが、自分で選ぶ。奉仕を他人から要求することはできない。というより、要求してはいけない。共栄に組んでくれる人を募集するのは良いし、奉仕の機会を用意して公開することも良いが、特定な人に対してある奉仕を強制的につけようとするのは惟神道の精神に違反する。

奉仕を全くしない人に対して、惟神道の重要な一部であることを指摘することは許される。そして、当事者にとってのメリットも指摘しても良い。自分の利益のために働かないからこそ、やりがいを感じることはできるし、自分の人生に満足を得ることもできる。自分のための行動はそのような結果と繋がらないそうだ。それでも、助言ぐらい提供できる。別な活動で奉仕している人に対して、自分の企画に合う奉仕を強いることは決してしてはいけない。それは個人主義と自己中心の結晶である。

奉仕の内容は、当事者が選ぶが、「自由に選べる」のはちょっと相応しくない。なぜなら、奉仕を受ける側の指導に従って奉仕しない限り、本当の意味の奉仕ではない。自分の夢を叶うために別な人のために何かをすることは良いかもしれないが、奉仕ではない。つまり、内容を選ぶというよりも、対象を自由に選べると言えよう。だからこそ、自分に奉仕する機会や自分の支持する運動に奉仕する機会を提供することは良い。奉仕したい人の助けになるからだ。

ただし、拘束力は一切ない。


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