祖先崇拝

祖先崇拝は神道の重要な一部であるのは明らかだ。学者の間、神道の原点は自然崇拝か、祖先崇拝かという論争がある。1500年前の状態はともかく、現在の神道には両方は重要である。では、惟神道で祖先崇拝をどのように具現化するのだろう。

私は、ご先祖様が何らかの形で今生きている子孫を見ているとは思わない。確かに、その可能性を絶対的に排除することはできないが、そう思う根拠はない。惟神道の中の祖先崇拝の役割を別な方向から考える。

その方向は伝統である。祖先が構築してくれたことは、今の伝統である。伝統は時代の沿革とともにわかってくるが、祖先はすべての時代に生きていたので、その沿革も祖先から受け継いだものだ。祖先崇拝は、伝統を重んじる態度とする。

伝統を重んじる態度は、ある習慣には歴史があれば、その歴史のために習慣を重視するということだ。習慣の本質からも評価するかもしれないが、歴史だけは良いことだ。二つの踊りは見たら同じような質があるとすれば、より長い歴史を持つ踊りの方が優秀であるという判断に反映される。革新を疑う態度にもなるし、保守的な態度である。個人的には、私は保守的であるとは限らないが、神道は確かにそのような生き方であるし、過去にも同じだったようだ。(一方、私も古い習慣の魅力をよく感じる。)

伝統を重んじるのは絶対的なことではないが、惟神道には絶対的な規則はないだろう。まず、もう触れたが、過去にも伝統が変わってきたので、今の世代でも伝統の進化を実現するのは適切である。「進化」と「塗りつぶし」の間の線を指摘するのは簡単ではない。神道の歴史を勉強すればするほど、明治維新の神道革新は塗りつぶしの方に傾いていた感じが強くなるが、当時の国学者は「維新」や「復古」だと思った。当時の国学者は真摯にそう思ったのは疑わないので、これは見つめるべき意見の違いである。この問題以外、「同じ」ということも難しい。例えば、神社の例大祭の日にちだが、旧暦の日にちを保つべきか、新暦に改めるか、それとも季節を保持するかという問題がある。現実に対応すると、何かを変更させなければならない場合は多いが、どうやって保守と変更を決めるかは、簡単ではない。

もう一つは、伝統の価値は絶対的な価値ではない。ある伝統に悪徳な側面があれば、その側面を改善すべき場合は極めて多い。強いて言えば悪徳だろう程度であれば、伝統のために改善しなくてもよかろうとしても、明らかに悪徳の場合、何かしなければならない。これも、意見が分かれる点であるが、両側やなるべく伝統を保とうとすれば、それは惟神道の精神を持つ論争になる。


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