前回に述べたように、自然崇拝も神道の重要な部分である。しかし、ご先祖様の見守りのように、自然の現象に宿る精霊の存在についても疑問を持つ。もちろん、木々などは生きていることは疑わないが、祭祀に気付くかどうかは別問題だ。だから、この段階で、惟神道の中で違う位置付けをする。
自然崇拝は、前に挙げた「共存共栄」や「奉仕」の範囲は、人間に限らずに、大自然に及ぶこととする。つまり、惟神道を歩めば、その概念を大自然に及ぶ。及ばない人は、その道を歩んでいない。もちろん、人間に及ばない人も惟神道を歩まないし、優先順位は人によって違うし、具体的に大自然にどう奉仕するかも人はそれぞれであると予想するが、そのような行動に努めなければならない。
絆を大自然の場合も重視するので、アフリカの動物を救うより、身近な鎮守の森や小川を保全したり改善したりすることは多いだろう。つまり、大自然とのつながりを肌で感じる行動は特にふさわしいと思う。例えば、植樹祭は良い例になるだろう。植樹祭から原始林が発生するわけではないが、自然な状態に近い林が生じることは少なくない。同じように、小川の掃除活動も良い。林業のために植えられた山林を自然林に近い状態に戻す作業もこの範囲に入るし、海岸で湿地帯を広げることも例になる。このような活動を通して、自然が広がったり栄えたりするし、活動している人はその自然との絆を感じてくる。
ただし、これに止まってはいけない。自然まで視野を広げたら、共存共栄の共存が重大な責任を課す。私たちの生活は地球規模の自然に大きな負担をかけるからだ。気候変動は一番有名な例だろう。温室効果ガスの排出によって、気候を変動させて、生態系を壊す。これは周りに迷惑をかける他ならない。もちろん、例はそれだけではない。肥料が田圃などから川に流れたら、川の中のバランスを崩す。川で海まで流れると、海岸の海の生態系にも被害を与える。捨てたプラスチックは小さくなりながら海に流れ、大洋でその生き物の毒になる。この影響を抑えようとしても、結果は見えないのは事実だ。その上、一人の動きでは変更は生まれない。だから、自分の生活で改善できる手法を探りながら、社会の改善のために活動すべきである。
英語で神道を発信する場合、自然とのつながりを強調することは多いが、日本と世界の現状を考えれば、そのつながりをさらに強調した方が良いと思ってくる。どのように具現化するかは、これからの話になる。