今まで惟神道の理念を論じてきた。一方、倫理を考えれば、戒律がすぐに思い浮かぶだろう。例えば、「ダメなことはダメ!」や、もう少し具体的で役にたつ「暴力を振るな」のような禁止令は、倫理の重要な一部として考えられる。むしろ、そのような禁止令は倫理の核心であると思われるのではないか。では、惟神道で戒律はどのような役割を担うのだろう。
前にも触れたが、戒律は基本的な存在ではないと思う。戒律は、理念に思わず違反しないような工夫に過ぎない。
例えば、「暴力を振るな」という戒律を考えよう。私は、この規則を擁護して、とても重要であると思う。なぜかというと、暴力を振ったら、その対象になった人に大きな迷惑をかけることになるからだ。共存に著しく違反する。しかし、現場で、この乱暴な人にどう対応した方が良いと考えれば、暴力が人間の頭にすぐに思い浮かぶ。世界を見渡せば、この悲しい事実はすぐにわかる。だからこそ、戒律として受け入れる。すぐに判断しなければならない場合、暴力を振らない。このような方針に従うと、大きな問題を避けることはできる。
一方、暴力が必要となる場合もあるのではないか。例えば、ある人が子供達を襲っていれば、暴力を使って抑えたほうがいいのではないかと思われる。確かにその通りだと思う。この場合でも、犯人を殺さないように努めるべきだと思うが、暴力を使うのは仕方がない。それでも、使う前に躊躇した方が良い。状況は本当に把握したかどうかなどの確認は大事である。その例外は、警察官などの訓練を受けた人だ。しかし、そのような人は、「このような場合、暴力を振るべきだ」という戒律を持っている。責務の一部だから、一般人と違った戒律を持った方が良い。
このように戒律が異なる理由は、戒律は理念を犯す恐れをなくすための存在であるからだ。一般人が気軽に暴力を振るったら、理念をよく犯す。今回は特別で、仕方がないと判断することに躊躇して、慎重になるのは良い。一方、警察官は、養成と訓練を受けてから活動するので、簡単に暴力に落ちるとは思われない。ただし、警察の過剰な暴力の歴史を鑑みれば、やはり警察官にも戒律は必要。例えば、もう服従した人には暴力を振らないような戒律はよかろうし、殺すほどの暴力を使わない方な戒律も良いのではないか。戒律の内容は、予想できる状況を慎重に考えて、いざとなる前に決めるので、その場の感情に左右されない。
同じように、自分の利益のために他人に被害を与える行動も戒律によって抑える。この場合、例外は事前に考えるだけではなく、利害関係を持っていない人と相談してから例外を決めるべきだ。妥当な例外もあると思われるが、自分で冷静かつ客観的に判断するのは極めて難しい。
戒律の大半は、他人への被害を避けるために必要である。重要な一部は、自分に対して不利益になる行動を抑える戒律だ。次回、それについて論じたいと思う。