誘惑

このブログで前にも触れたが、倫理の中で人間を自分の弱点から救うための要素があると思う。それは、誘惑と対立する倫理の掟である。例えば、飲酒を抑制する倫理とか、賭博を禁じる倫理などはそうである。一方、他人の自由を保護する倫理もある。殺人を禁じる起きてはその代表例だろう。他人の自由に抵触する行動は、当事者の信念などにも拘らず、強制的に禁じるべきである。これは、該当する人は人間ではない場合も同じである。(この範囲をどこまで広げるべきかは、大きな問題であるので、ここで扱わない。)例えば、自分の真心で信奉する宗教によると、毎年の冬至の日には太陽に生き贄として街角で捕まえた人間を捧げるべきと言われるとしても、その宗教的な行動を禁じるべきである。一方、信者以外の人に迷惑をかけない宗教の行動は、許すべきである。この自由を保つための具体的な規則を定めることも容易ではないので、これも今回扱わない。

では、誘惑の行為に焦点を当てよう。誘惑の典型例として麻薬(お酒とタバコを含み)、賭博、そして性的行為を考える。どこの文化を見ても、このような行動について掟を定めたことは多い。それはなぜなんだろう。

共通点は、このような行為は人間の動機を乱す力があることだと思う。つまり、「実は」別なことはやりたいが、このことの誘惑による、ついこの行為を行うことは多い。依存を良く見る行動である。そして、ほとんどの人の場合、このような行為に人生を専念するつもりはない。その上、そうすれば、社会にあまり貢献しない。数年間ギャンブルしたら、勝つとしても社会への利益は少ないだろう。つまり、個人の人間のために、社会のためにも、抑制することは有利である。そのため、ほとんどの社会で制限は見られるだろう。

しかし、よく考えなければならないこともある。ほとんどの人はこのような行為を自分の人生の生業にしたくないが、例外もあると思える。例えば、ワインの達人になりたい人は、実際に存在する。ただのアルコール中毒に陥るのは良くないが、自由にお酒を飲めないと、そのような分野で造詣なることはできない。だから、社会として禁じるわけにはいかない。この分野で活躍したい人は少数だろうが、少数派の自由も保障しなければならない。これからの投稿で、相応しい態度を考えたいと思う。その態度は、社会的な立場、つまり法制などからの考えも、惟神道の独自的な神道倫理観からの考えも含まれる。法制は許すべきであるが、一切規制を課さないとは言わない。一般の人の計画と社会の秩序を乱せることは、自由を保ちながら悪影響を抑制すべきであろう。

順番として、麻薬から始まり、そして賭博、最後に性的行為を扱うつもりである。


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