惟神道のなかの麻薬

社会では、制限を課しながら麻薬の使用を許すべきであると述べた、惟神道はどうなるだろう。これは、人が自由に選ぶ倫理の道であるので、選んだ人の自由をさらに考える必要はあまりない。(それはちょっと過言であるが、自分で自分の行動を制限するは倫理の目的である。)

だから、まずは麻薬を禁じると思う。惟神道では、自分を磨いて、周りの社会に貢献することを重視しているが、麻薬の利用はそのようなことの妨げになるばかりだ。タバコもそうだし、現在違法である麻薬もそうだ。前回も述べたが、私は何も使わないので、簡単にこのような禁止令を受け入れられる。

ただし、問題がすぐに発生する。お酒は、神道の神事の中心的な役割を担ってきた。お酒を禁じれば、神道の伝統の一部を覆すことになる。それは確かに問題であるので、お酒を許すしかないだろう。それでも、飲酒は惟神道の目的にそぐわないので、何かの制限を設けるべきだろう。

お酒は、神事の一部であるから許すことにしたので、制限として神事の一部としてしか飲酒を許さない方針はいかがだろう。つまり、神饌として奉ってから、直会でお酒を飲むことは惟神道の一部とする。これで、飲酒の量と機会は自然に制限されるので、大きな問題になることは少ないだろう。もちろん、直会でお酒を飲まないことも許す。形だけでも良い。

そして、お酒を飲む神事は、二人以上が奉仕したり参列したりすることを条件とする。一人で飲むのは危ないので、祭祀の範囲を超えないように二人以上があることを定めたほうがよかろう。

この禁止令は、本人を守るための掟であるので、思わずお酒を飲んでしまうことは対象外である。気づいたらもちろん止めるが、気づく前は罪とはしない。同じように、料理の材料の一つはお酒であるとしても、問題視しない料理の中のお酒は酔っぱらうほどの量にならないし、気づかない場合も少なくない。人生の計画を乱す恐れは非常に少ないし、日本料理に入る場合は多いので、日本の伝統を楽しめるためにこのような考えた方がよかろう。

このような厳しい制限は、制限された人によって喜んで受け入れる。なぜなら、自分のやりたいことの妨げになることに気がついているからだ。意志を補強する措置として、効果は期待できる。つまり、麻薬を使いたい人は、惟神道をそもそも歩まない。似ている道もあるかもしれないが、別な道である。

麻薬の依存性の為、特に簡単に考えられる誘惑である。麻薬が人間の自由を奪うというのは、ただの比喩ではない。しかし、賭博などに移ると、複雑になる。


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