惟神道の中の賭博

私は、賭博に特に興味を持っていないので、禁じるのは簡単である。しかし、自分にとって価値はないことを捨てるのは評価すべき行為ではない。そして、賭博に似ている問題行動はある。例えば、ポケモンを全て集めるも同じようなことになる。最後のポケモンを入手するために、意外なお金を出すこともあるし、人間には完全に集めようとする精神はあるようだから、賭博のように人間の心理の弱点を利用する行動である。それで、私はこのようなことに弱い。問題にならないように最初からしないことは多いが、この部屋にある500冊の本はその失敗を表すことも言えるだろう。だから、賭博だけではなく、このような商法に対応する惟神道の方針を描きたいと思う。

賭博が問題になるのは、考えずにやることや予算以上のお金をかけることから発生する。時間も費やしてしまうが、それはお金に一緒になる。

まず、賭博を許す時期を制限すると良いだろう。時期が終わるまで待つことは、依存になっていない限りそれほど難しくないし、賭博依存にならないことを保証する。惟神道は神道と関連するので、神社の祭祀の前の潔斎の時期などを禁止期間とするのは良い。そして、賭博する前に、費やす金額を決めて、その金額を神前で報告するご祈祷を執り行うこととする。これも、お酒と同じように、一人で執り行う神事ではない。少なくとも二人で奉仕するし、その一人は賭博に関わらない人とする。

ここで強調したい点がある。このような制限の中で、賭博は悪くない。楽しいと言われているし、信じ難くない。だから、予算を計画的に作って、時間を割いて、楽しみに行くことは、他の旅行と変わらない。私の温泉旅行で、数日読書に没頭するが、予算内賭博に没頭することも、それほど変わらないだろう。映画を見ることも同じである。このNetflixの時代に、過剰な時間を映画鑑賞で失う人は少なくなくなっているので、そのような行動にも制限をかけたほうが良いだろう。つまり、賭博には危険性もあるが、それに配慮して楽しむことは批判しない。登山も同じだろう。危険に晒されるが、楽しむために行く。出発前に、計画を報告して、神のご加護を求めるのは良かろう。

ただし、賭博は娯楽に過ぎないだろう。普通に自分を磨くことも、社会に貢献することも、絆を強めることもない。買い物も同じだろう。その状態であれば、惟神道で評価しないが、娯楽自体は人間にとって必要だから、潔く許す。(ちなみに、娯楽以外の目的のある娯楽は、ある程度娯楽の効果を失うこともあるので、このような単純な娯楽には問題はない。)私が惟神道を説いたら、賭博を娯楽として選ばない方が良いというのだが、倫理違反であるとは言わない。倫理違反は、祭祀などを行わずにかけることに限る。


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