歴史を見れば、性的行為の問題と取り組むために、全面的に抑圧しようとすることは多い。キリスト教もそうだし、仏教もそうだ。子供を設けない性交以外は認められないし、子供をもうけること自体に対して曖昧な態度をとることは多い。仏教の僧侶も、キリスト教の神父も、一切性的行為を行うべきではないと言われた。西洋では、同性愛を厳しく弾圧した。
効果はないのは明白だ。むしろ、多くの悲劇を生み出したというしかない。
もしかして、王国の政権交代を恐れた人が国王の絶対的な権力を強調したように、問題が発生しない状況を目指した。しかし、王権の強調はただ内乱と継承争いを招いて、逆効果にしかならなかった。むしろ、民主主義で政権交代を恒常のことにしたら、紛争がなくなった。私の考えは、性的行為を同じように扱うべきである。つまり、そのような行為を原則として自由にするが、その形式を左右する。民主主義の国家で、国民は自由に政権を変えることはできる。ただし、そうするために選挙を待たなければならないし、手続きに従って候補を擁立しなければならない。この枠組みがあるからこそ、大きな混乱に陥らないと言えよう。
色欲は抑圧できない。4000年の歴史がその根拠となる。だから、社会の構造を考えて、色欲から発生する被害を抑えて、良い側面を促すべきである。被害の一部は、性的行為に夢中になって、他の計画を遂行できなくなることであるが、裏切りや嫉妬から発生する問題にも配慮しなければならない。
実は、現在の態度は過去の態度より効果的であると感じる。まだ全面的ではないが、欧米でも結婚する前に性的な経験を持つことは普通になっている。これは、許すべきだ。色欲の強さで、性交することは少なくないが、そのために結婚を強引すれば、生涯の問題を用意することは多い。ただの経験として認めれば、問題はあるものの、人生を台無しにする問題に至らない。同じように、効果的な避妊法の普及も良いことだ。妊娠は性交の目的であると言えるが、場合によって人生を大きく乱すこともある。性交を避けて妊娠を避ける方法は、効果はない。確かにその通りしたら妊娠しないが、そうできる人は少ないことは、歴史が語る。同じように、同性愛を認めるのは良いことだ。子供は確かに設けられないが、他の良い側面はそのままだし、同性愛の色欲は異性愛の色欲に劣らないようだ。これから「性的行為」を話すと、同性愛と異性愛を平等に指すつもりである。
では、色欲を良い方向に流れるように工夫すれば、倫理や法制はどうなるのだろう。