私は、日本人なのだろうか。
もちろん、法律上の質問であれば、簡単に答えられる。日本の国籍も日本の旅券も持っている。しかし、国籍法だけで決まる問題ではないだろう。ノーベル賞受賞者であれば、アメリカに帰化するために日本国籍を放棄したとしても、堂々と「日本人」として報じられるし、国籍法ができる前の徳川家康らも日本人だろう。これは、国籍の問題だけではなく、アイデンティティの問題でもある。
そのアイデンティティに関して、一番簡単な方法は、当事者の判断に従うことだ。つまり、日本人であると思う人は、日本人とする。しかし、この基準では、日本人であると思えば、具体的に何を思うのかは、問題になる。例えば、自分も親も一度も日本に踏み入れたことはないアメリカ人は「私は日本人である」と言ったら、何を考えているだろう。日本国籍を持っていると思っていないだろうし、日本で生まれたとも思うはずはない。
先日は、Katharine Jenkinsという哲学者の論文で、Sally Haslangerという哲学者の理論の発展にあって、これに役に立つ要素があるのではないかと思った。社会では、あるアイデンティティに関して、様々な規範があるのは普通である。例えば、日本で日本人であれば、手書きで漢字をかけるのは規範であろう。これは社会が設ける日本人の規範の一つとする。自分のアイデンティティを日本人とすることは、その日本人と関わる規範を自分に当てはまると思うことであるとの理論である。「自分に当てはまる」というのは、受け入れるということではない。例えば、現在のパソコンの時代になったら、手書きを重視する意味はないと思っても、手書きの漢字の規範に反対したりすれば、自分の従わない態度を正当性させようとしたりすれば、その規範を自分に当てはまるとしているので、日本人のアイデンティティを持っている。
この理論の長点は多いと思う。まずは、典型的な日本人と同じように行動しなくても、日本人のアイデンティティを持っている可能性を確保する。そして、当事者の中の考えで決まることであるが、社会との相対性もある。つまり、自分に当てはまると思う規範は社会が日本人と関連しない規範であれば、自分のアイデンティティは本当に日本人であると思っているとは言えない。そして、そう思わないことも説明できる。例えば、私は、私は女性であると思わない。そして、女性の規範は私に当てはまるとも思わない。その規範について意見を持っているが、それは第三者の意見である。私の行動などは、その規範に対して正当性を強調する必要も感じないし、そうすること自体は変である。
しかし、これだけで十分であるかどうかは不明だ。例えば、私の性器の構造に基づいて、私は女性ではないとも思っている。一方、性同一性障害者は、正規の構造を決定的な要素としない。それでも、性器の構造に基づいて、性同一性障害者になるので、無関係であるとも言えないだろう。次回、このような要素についても考えたいと思う。