前回、日本人の基準が複雑なのではないかと提案した。そのようなことは、一つの条件で決めるわけではない。一方、その決め手となる要素が揃う場合は多いのだ。肌色と顔立ち、日本の住まい、日本の生まれ育ち、日本語の日常利用などは、自然に並ぶことは多い。日本に住む人のほとんどは、典型的な日本人の肌色と顔立ちを持っているので、当然その子にも同じ外見が継承される。そして、日本で生まれてきたので、日本で育つのも当然だ。日本で育てば、日本語で喋るし、日本の文化に染められる。その上、別の国の文化の要素を持たない。
このような人に「何人?」と尋ねたら、迷わずに「日本人」と答えるだろう。
一方、その要素の一部しか揃わない場合、そして別の国の要素も持つ場合、どう答えればいいかは、躊躇するのではないか。自分のアイデンティティはそれほど単純なことではないので、どう言ったらいいかは、考えなければならない。私の場合、日本人と名乗ったら、何か重要な要素を見逃しているような気がするし、娘もただ単に「日本人」と考えないようだ。ハーフであることは自分のアイデンティティとして重視しているようだ。
世界のグローバル化が進む中、このような重複なアイデンティティが増えるのではないかと思う。移民の人数が増えると、自然に増えるし、他国の文化に触れる人たちは、その他国の要素を帯びるようになるのではないか。その結果、すぐに「日本人」や「中国人」と答えられなくなると思う。
ただし、それだけではないのだ。日本の中でも、「江戸っ子」などのアイデンティティもあるし、人口流動によってそれも複雑になってきたと思う。私の勉強する神道でも同じようなことが発生する。「氏子」というのは、正式に「氏子区域に住む人」を指すと指定されているが、「代々住んできた家族の一員」の意味も含まれている。歴史的に、人はあまり移住しなかったようだから、氏子区域に住んだ人の大半は代々住んできた家族の一員だった。しかし、現在になったら、そうとは限らない。氏子の子供が東京に移住したら、まだ氏子なのだろうか。その孫は東京生まれになるので、氏子だろう。
このような質問には簡単な答えはそもそもないと思う。答えを炙りだすのは難しいのではなく、答えはないということだ。「氏子である」とも「氏子でない」とも簡単に言えない人の数は増えているのではないかと思う。「日本人」も同じだし、性同一性障害の現実を考えれば、「男性」も同じなのではないか。
これはアイデンティティの複雑化である。私は、いいことだと思う。アイデンティティは単純であれば、考えずに済むので、そのアイデンティティを持っている人は皆自分と同じであると思ってしまう。しかし、それは太古から誤りだった。表面が複雑になると、誰でも考えなければならないので、おまわずの統一観がなくなると望んでいる。