今日、真由喜の日本舞踊の稽古場の新年会に参加してきた。その場で先生が日本の古き良きものがなくなると寂しいとの旨を述べ、私たちに周りの人にも日本の伝統文化を紹介したり親しませたりすることを促した。私が生まれつきの日本人に日本の伝統文化を推薦しようとしたらどうかとも思ったが、他の問題がある。
古き良きものを特別な古き良きものとして紹介したら、馴染まないのではないかという問題が。確かに分野によってそれは問題にならない場合もあるだろう。例えば、神事が日常的にならないのは良いことだ。特別な心境で臨むのは望ましい。しかし、他の文化はそのような形で生きられないのではないか。例えば、お正月の伝統的な遊びは、遊びとして扱われない限り生きていない。遊びとして扱うために、特に子供は特別な思いを持ってはいけない。たださりげなく遊ぶことは必要である。和装も同じ側面がある。成人式などの特別なイベントであれば、きちんとした素敵な着物を着れば良いが、日常的に来てもらおうとしたら、着崩れに気にしてはいけない。日常的な行動を行ったら、着崩れるに違いない。
伝統芸能も同じである。人が本当に楽しまないと、芸能は生き残らない。歌舞伎も能楽も元々庶民が熱気に楽しんでいた芸能だった。
一方、このように考えれば、遊びも芸能も当然時代とともに変遷してくる。しかし、そう変わってくると、もうその古き良きものではなくなる。だから、昔のままで保存するか、生きている状態で将来へ伝えるかという二者択一になるのだろうか。
生活の中でその伝統が息つくことは目指される。狭き門にならないように工夫しなければならないし、本髄が損なわれないようにも努めなければならない。
一般的な解決策は存在しないと思われる。例えば、百人一首のカルタの入門として、ちょっと緩みのルールで遊ぶこともできるが、そのような感覚は歌舞伎に当てはまらない。歌舞伎の場合、安く鑑賞する機会を設けた方が良かろう。歌舞伎役者になる人は少ないが、カルタの場合、自分で遊ばないと意味はほとんどないだろう。だから、伝統ごとに保存策を講じることになる。
一般的に言えることは一つぐらいあろう。それは、閉鎖的な伝統文化を解放しなければならないことだ。日本舞踊の次世代を担う人の大半は家柄で日本舞踊や他の伝統芸能を受け継いだ人になっているようだし、歌舞伎は明らかに踏襲される形になっている。このようなことであれば、若手が少なくなる一方である。子孫は皆受け継ぐはずはないが、外から補うことはできない。少なくとも真由喜がやっている日本舞踊の流派は閉ざされていないようだから、それは良いが、一般人が容易く参加できる工夫はなんの伝統でも必要なのではないか。
まぁ、神社の秘儀はこの一般論の例外にもなる。完全な一般論はないだろう。一つ一つ考えていくべきだ。