英語のエッセイの研究を進めたら、「禍事」は「曲がる」からくる言葉であることに気づいたが、これも穢れと不適切な場所の論理に合致するので、この考え方をさらに進めたいと思う。
一番関心のあることは、「適切な場所」の定義である。どう定めたら良いのだろう。一律で定めることはできないだろう。
例えば、神社の参拝や服装を考えよう。肌を露出する服装はダメだとよく言われますが、男性も女性も参拝できる。巫女も奉仕する。一方、相撲を考えよう。土俵は神聖な区域であるが、力士が褌姿で入るし、女性は入ってはいけない。では、神聖な区域に入るための規則はなんだろう。褌姿で神社に参拝したら良いのだろうか。適切な服装は、環境などによって異なる。それは一般的な話だ。土と墨の話もそうだった。
まずは、個人的な穢れは、その個人が適切に整っていないと感じる状態を穢れとする。病気も気持ちも服装も同じだ。個人的なことについて、他人は口を出すことはできない。本人は不適切だと感じたら、精神的な影響があるし、穢れとする。一方、本人は整理されていると感じたら、その人にとって穢れではない。
しかし、神道は個人主義だけではない。もう一つの整わない形式は、社会の秩序に合わないことだ。女性が相撲の土俵に入れば、この意味で穢れを齎す。その女性の個人的な気持ちはどうでも良いのだ。相撲界の秩序を乱したので、穢れになる。共同体に入ったら、その共同体の秩序を守らないと穢れになると言える。共同体の立場から見れば、適切な状態ではないからだ。
このように考えれば、広く穢れになることはあると思える。傷や病気な顕著な例だろう。しかし、例えば近視は病気であるかどうかは、意見が分かれるだろう。病気ではないと思ったら、つまり近視でも適切であると感じる人は、近視を穢れとして感じない。特にある状態は自分のアイデンティティの一部であると思う人は、その状態を穢れとして考えることはない。一方、同じ状態を自分の場合大きな逸脱や乱れであると思う人は、穢れを強く感じる。穢れの意識はどれほど共有されるか、どれほど個人差があるかは、調べないとわからないが、最近の障碍者権利の運動を見れば、もしかして個人差は意外と広いのではないかと思わざるを得ない。盲目であることさえ適切であると思う人もいるので、何の病気でも穢れとして捉える意識は共通しないかもしれない。
共同体も同じだろう。田んぼの畦を壊す行為を穢れとみなす共同体は殆どだろうが、農業と完全に離れた共同体は気にしない可能性もある。このように神道の多様性を保つことができる。一方、個人主義が蔓延しない。共同体の秩序から逸脱すれば、穢れになるからだ。
穢れがあれば、お祓えだ。次回、その意味や位置付けについて考えたいのだ。